駄賃稼 (大和町史p236)

駄賃稼 (大和町史p236) 

 この地方の村々の、江戸時代中期以降の村明細帳には、農間余業として炭、薪の売り出しが行われていることを記したものが多い。早い時期のものとしては正徳元年(一七一一)の中藤村(村山町中藤)明細帳が「薪炭を青梅町で買い調え、江戸へつけ送りかせぎしている」と説明しているし、また横田村の正徳元年の村明細帳も、男の農間稼として「薪炭を青梅町で買い、つけ出し、かせぎにしている」と記している。横田村の隣村岸村でも享保三年(一八○三)の村明細帳が「耕作之間は男は炭槇(すみまき)をつけ江戸へ罷り出でこい(肥)はい(灰)に取り替えている」と記している。このように、狭山丘陵南麓の村々が、青梅で仕入れた炭や薪を、江戸まで運んで売り出していたのは、かなり早い頃からであった。

 それが一八世紀の末から一九世紀になると、この農間稼は、一層活澄になる。
 安政二年(一八五五)の調査によると、狭山丘陵周辺村落である所沢村組合村々四八カ村中、農間に炭薪を江戸及び最寄市場に附出している村々は、狭山丘陵南麓の蔵敷・奈良矯・高木・後ヶ谷・宅部・清水・廻田の七力村である。

 更に、炭薪つけ出しの具体的姿をさぐってみよう。文久三年(一八六三)の後力谷村明細帳は「馬持百姓は柴山に出て、木樵炭薪に致し或は青梅飯能五日市八王子等で炭薪を買入れ、馬附に致し夜四ツ時頃より罷り出で江戸表の御屋敷様方へ相納め、翌日は夜に入り五ツ時前後に立戻り駄賃取稼ぎをいたしている」と説明している。

 同様な記載は、高木村や奈良橋村の明細帳にも見られる。幕末になると大和町域の諸村では、馬持百姓が農間駄賃稼ぎとして青梅・飯能・五日市・八王子等で炭薪を買入れ、馬附又は車で夜四ツ時頃より江戸に出かけ、朝方江戸に着くと武家屋敷等にそれを納め、その日のうちに江戸を出て、夜五ツ時頃立戻るというやりかたで炭薪を売っていたのである。これらの農民は農間駄賃稼ぎと記されているが、それは自己の責任で炭薪を仕入れ、これを自己の責任で販売する薪炭商人であった。
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 文政十三年(一八三〇)に、蔵敷村の戸数は五三軒を数えるが、このうち九軒が舛酒売等の農間商業及び諸職人で、残りの四四軒は「農業一派之渡世」のものであった。この農業一派之渡世を営む者の中に農間炭薪のつけ出しを行うものがあったのであろう。文政八年には農間炭薪渡世の者を一八人数えることが出来る。この一八人は炭薪を「山方より買入れいたし江戸表へ売払う」ものであった。農間炭薪渡世人のいずれもが米穀酒醤油等の商売や質屋稼は営んでいないのである。

 一八人の炭薪渡世人中、名主以下の村役人層が半数の九人を占めている。未だ農間渡世が十分な展開を見ないこの段階では、炭薪を山方より買い入れて江戸へ売払う炭薪商が、資本を蓄積する契機として大きな役割を果していたのであろう。

 ところで、その後安政五年(一八五八)の書上帳には、これらの系譜をひくところの名主杢左衛門が質屋を、組頭重蔵が穀物荒物渡世を、同じく組頭吉右衛門が材木舛酒商を営んでいることが書ぎ出されている。農間稼として五日市その他より炭を仕入れ、江戸に持出して売りさぽいていたこの地方の農民の中には、それぞれ村の中で商人として成長して行くものがあったのであり、これらの村の商人に成長するものは、その成長と共に、炭のつけ出しから離れて行ったのであった。

油屋

 この頃の夜間の灯火は灯油を使った。夜、暗くなれば寝てしまうだけの生活であったら、当然灯火は要らないことになる。恐らく江戸時代も中頃以前の農民は、多くは、そんな生活だったろう。ところが、中頃以降になると、灯火の必要が起ったのだろう、村の中に絞油業者があらわれて来る。高木村の宮鍋庄兵衛は、このような絞油業者の一人であった。天明年間には、この地方の絞油業者の組合を作ろうとするし、また、同じ頃の打ちこわしをかけられた際に、油だるがこわされて、地中にしみこんだ油が、井戸に流れ込んで、井水が長い間、油に変ってしまった、という話が伝えられる程、宮鍋家の絞油業は、その規模が大きかった。

 油の原料は荏(え)である。この地方の農民が栽培した荏の種を買ったり、また荏の種を買った代金を油で渡したり、或は逆に、農民が絞油業者から買った荏粕(肥料)の代金を荏種で払ったりした。取引の範囲が、きわめて地方的であったに拘わらず、油をめぐる取引が、やはり村の中に貨幣経済を一層進めることになったのである。

村の穀屋

 この地方の商品の取引の主要なものは、肥料商であり、穀屋であった。取引された肥料は主として糠であったが、この外に灰もあった。いずれも他地方から買入れたものであるが、江戸時代も中ごろ以後になると、肥料を買い入れて村民に売る肥料商が、村に発生した。村の肥料商は、主として引又(埼玉県足立町志木)、所沢などから糠や灰を仕入れ、それを、春さき、肥料の必要な時期になると農民に貸し与えた。代金は、秋に作物が出来ると、穀物で回収した。そこで、村の肥料商は、引又や所沢から肥料を買入れて農民に売る肥料商であると共に、農民から穀物を買取って、所沢や引又に売る穀屋でもあった。

 村の肥料商は、もともと裕福な農民であったが、彼らは、糠を、安い時期に買っておいて、肥料の必要な、値段の高くなった時期になると農民に貸しはじめ、代金返済の時まで、月に二割から二割半位の利息をとって代金を回収した。こうした方法の糠代金は、ふつうの糠値段よりも高く売り、返済する穀物は、普通の穀物値段よりも安く買い取った。こうし
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た点で肥料商を兼ねる穀屋は、農民の5らみを買う原因を持っていた。

質屋

 貨幣経済が進むと、農民は生活の上で、貨幣を必要として来た。事あるごとに貨幣を必要とする生活は、村に金融機関を発生させた。
 高木村の庄兵衛は明和元年(一七六四)に質屋を開業しているが、このように、最初に村で金融機関となったものは、絞油業者なり穀屋なりであった。こうした点で穀屋、絞油業者は、一層、村民の怨嵯を買ったのである。

ハタ屋

 新しい生産の展開に応じて、新しい商人が成立した。この地方で、その後広く行われるようになった木棉縞織りは、およそ一九世紀初め頃から盛んになり出したものと思われるが、それは婦女の「農間稼ぎ」として行われたものであった。それが、江戸へ売出す商品として要求されるようになると、木棉縞を買集めて、所沢なり、八王子へ売込む商人が発生した。彼らは、はじめは所沢や八王子の問屋に売込む仲買人であったが、やがて、糸を買入れて、その糸で村内の婦女に織らせるハタ屋に成長するものが出てきた。ハタ屋は、他の商人にまして大きく成長する。

あいとまゆ

 織物が盛んになるに伴なって、幕末には、染料のあいの栽培が盛んになった。あい葉やあい玉を買集める商人が発生し、これらの商人の中には、あいの集荷を独占しようとするものもあらわれた。養蚕も行われるようになり、まゆが売り出された。

 まゆの買集め商人は、他村からやって来た。多摩郡上川原村(昭島市上川原)の指田七内は、上川原村の名主であったが、農業の間にまゆの仲買商を営んでいた。天保十年五月の「まゆ仕入覚帳」によると、七内は、この年の五月九日から二十九日までの間に、この地方の一一ヵ村(旧村)のべ六九軒の農家を廻り、総計四五二枚に上るまゆを買入れている。

 まゆの買付けの為に村々を廻るわけであるが、それは五月九日に拝島へ行ったのを皮切りに、十八日に立川、十九日に立川から郷地、福島、二十日に立川、二十一日に砂川、二十二日に中藤、二十三日に中藤から砂川、二十四日に再び中藤、二十五日には上川原村内を廻り、二十六日に三ツ木から中藤に行っている。大和町域へは最後の三日間、二十七日に芋窪、蔵敷、奈良橋、二十八日に奈良橋、蔵敷二十九日に蔵敷へ来ている。然し芋窪、蔵敷、奈良橋までで、それから東へは行っていない。

 平均すると一軒から四枚位のまゆを買入れているのであるが奈良橋村の太郎兵衛からは最高の二十九枚(代金九両二分)を買い付けている。買付けに当っては金一両か二分乃至三分の内金を入れているが、五月九日には三両、次の五月十八日には一両二分、五月十九日には五両の内金を入れて買付けている。まゆ仲買商人が、常に用意して行く金は、この程度であったのであろうか。この外に宿泊費、まゆの運賃も用音心しておかなければならなかったろう。五月二十八日に奈良橋、蔵敷へ行った時の
費用は次の通りである。

五月二十八日
 一七百五十文 まゆ三駄分駄賃
 一五百文   弐人 芋久保泊り